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鉱夫 [番外編]

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お気に入り度 ★★★           2007年5月12日撮影 


所在地:新潟県三島郡出雲崎町「石油記念公園」内

2007年に出雲崎にて撮影したものです。

特に名前などはない鉱夫の像ですが、番外編として追加掲載しておきます。

~説明版より~

鉱夫の像

西山油田(株)西山鉱場は、明治30年(1897年)日本石油(株)による長嶺1号井の大噴油を発端として以来、全国にその名を馳せ、石油の増産に日夜奮闘を続けていた。

この像は、昭和19年(1944年)の秋、東京から美術報国推進隊(隊長鶴田吾郎画伯)が、従業員の慰問に訪れたおりに作業員の雄姿を造形し「産業戦士の像」として、鉱場事務所の門前に建立したものである。時は移り、かの西山油田も全く衰亡し、単調な田園風景に変った。昭和48年(1973年)に帝石運輸(株)から往事の西山油田を忍ぶ無上の記念物としてこの像を当公園に寄贈された。

像は、ロータリー式掘さく機により掘さく手が掘進作業中のもので右手にブレーキハンドルを持ち、左手に速度調整電気スイッチを持つものである。 


半世紀の素描 (1982年)

半世紀の素描 (1982年)

  • 作者: 鶴田 吾郎
  • 出版社/メーカー: 中央公論美術出版
  • 発売日: 1982/01
  • メディア: -


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二本松少年隊 [幕末]

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お気に入り度 ★★★★★           2008年5月8日撮影 


所在地:福島県二本松市「霞ヶ城公園」内

戊辰戦争の悲劇のひとつ、二本松少年隊の群像です。

右端に写っているのは、我が子の出陣服に藩主・丹羽氏の家紋「直違紋(すじかいもん)」の肩印を縫い付けてる女性の像で、岡山篤次郎の母がモデルのようです。

目頭が熱くなる群像ですね。 

母の像の前にはスイッチがあり、押してみると伊藤久男歌唱の「二本松少年隊」の歌が流れてきます。

調べてみたところ、作曲の古関裕而も、作詩の野村俊夫も全員、福島県出身の方でした。

私が訪れた2008年当時、本丸には大規模な修復がなされた真っ白で見事な復元石垣が見ることができましたたが、東日本大震災の影響で本丸天守台は地割れ等で立入禁止となっているそうです。(天守台以外は見学できるそうです) ※2012年4月現在

制作:橋本堅太郎(二本松市名誉市民)

建立:平成8年7月28日




 

武士道―二本松少年隊の記録

武士道―二本松少年隊の記録

  • 作者: 紺野 庫治
  • 出版社/メーカー: 歴史春秋出版
  • 発売日: 1994/09
  • メディア: ペーパーバック


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斯波家兼 [武士(平安・鎌倉・室町)]

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お気に入り度 ★★★★           2008年5月7日撮影 


所在地:宮城県加美郡加美町・中新田城跡内

奥州探題・大崎氏の始祖、斯波家兼(しば・いえかね)の像です。

羽後街道を通過中に発見しました。

凛々しい像でした。

~以下碑文より~

斯波家兼公

大崎氏の祖である斯波家兼は1354年(文和3)若狭国守護から奥州管領に任じられ陸奥国に下向した 当時の奥州は吉良畠山石塔石橋らの諸氏が対立した無政府状態にありこれを足利一門で室町幕府の要職を歴任ししかも幕府の指導者足利尊氏の側近ともいえる家兼の手で解消しようとしたのである
彼は子息の直持とともにその勢力拡大に奔走し孫詮持の頃には河内七郡と呼ばれていた大崎地方を支配するに至った 同じ頃奥州の最高の権威である奥州探題に就任し歴代の子孫はこの要職を世襲して公方(将軍のこと)と尊敬されるようになった
室町時代の中頃には京都でも大崎殿と呼ばれている支配領域にちなんだ名乗りだったのであろう
大崎氏は12代義隆の頃に小田原不参を豊臣秀吉に咎められて滅亡したがその名残は今日も各地に見られる
家兼は赴任後2年足らず49才で死去 法名も圓承長国寺殿と号した

平成元年11月

中新田町長 須貝信義

撰文 伊藤 信
時代考証 藤本正行
撰文揮毫 鈴木久男
像制作 翁 観二




 

奥州探題大崎氏

奥州探題大崎氏

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 高志書院
  • 発売日: 2003/02
  • メディア: 単行本


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山蔦重吉 [剣客]

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お気に入り度 ★★           2008年5月7日撮影 


所在地:宮城県大崎市岩出山・「城山公園」内

岩出山の城山公園にある剣客・山蔦重吉(やまつた・じゅうきち)の像です。

~以下碑文より~

山蔦範士之像

日本剣道史に不朽の名声を残す郷土出身の偉大な双璧の剣客がいる すなわち薙刀の女性剣士園部範士と 剣道・居合道の剣客山蔦重吉範士である
山蔦藩士は厳父喜七の長男として 明治20年10月10日旧一栗山古館に生れ 長じて海軍に籍をおき剣術を修得した 除隊後剣をもって身を立てることを決意し剣聖中山博道範士に師事して 百戦錬磨その奥義を極めた
やがて横須賀鎮守府剣道師範となり あるいは中学校剣道教師として 全国各地において青少年の指南にあたり 幾多の優秀な人材を育成し 斯道の興隆に貢献した功績を認められ日本剣道連盟より斯界最高の称号を授与
範士の輝かしい業績を讃えるために 全国の門弟と相計り 由緒ある城山の地を卜し範士の立像を建立して もって報恩の誠を表わし 不滅の剣名を永く後世に伝える

昭和46年11月14日

宮城県知事 山本壯一郎 題字
岩出山町長 千葉啓一 撰文

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謝辞

この度記念像造立に際し建立委員会各委員の御尽力関係各位の多大な御支援を頂き当像の完成を見まし事は私共一族の誇りでもあり感激深大なものが有ります
又、栗生時化雄氏には諸事万端に亘りお世話頂き改めてねぎらい申し上げます
ここに、碑の裏面をお借り致し謝意を記し置くものです
1972年 早月

山蔦 了
親戚一同

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彫刻 佐々木 光




 

居合道本義―夢想神伝流

居合道本義―夢想神伝流

  • 作者: 山蔦 重吉
  • 出版社/メーカー: 愛隆堂
  • 発売日: 2004/10
  • メディア: 単行本


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伊達政宗(2) [戦国武将]

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お気に入り度 ★★★           2008年5月7日撮影 


所在地:宮城県大崎市・岩出山城跡「城山公園」

岩出山城跡にある伊達政宗の平和像です。

セメント製のようです。

かの有名な仙台城の騎馬像とは印象がまったく違いますね。

~以下説明板より~

政宗公立像について

政宗公立像は、もと仙台市青葉城址にあったもので昭和39年9月仙台市から岩出山へ、寄贈されたものです。

戦後空になった台座に、小野田セメント会社が彫刻家柳原義達氏に託し製作し仙台市に寄贈されたもので平服を着ているところから平和像と呼んでいます。

岩出山は政宗公が天正19年(1591)9月23日山形県米沢から移り慶長8年(1603)8月まで、12年の間城を構えたところです。25才から38才までの充実した年代で、その間文禄の役関ヶ原の戦等に出陣しました。この像の建立を記念し毎年9月の第2土曜日と日曜日に、政宗公まつりを催しています。

~以下碑文より~

藩祖伊達政宗卿居城の地岩出山町城山を卜し卿の偉業を後生に顕彰するためここに建立する

昭和39年9月23日

岩出山町長 千葉啓一



 

馬上少年過ぐ (新潮文庫)

馬上少年過ぐ (新潮文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1978/11/29
  • メディア: 文庫



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