阿部茂兵衛 [明治]
お気に入り度 ★★★ 2008年5月8日撮影
所在地:福島県郡山市「開成山大神宮」駐車場
東北のお伊勢さま「開成山大神宮」に建っていた阿部茂兵衛(あべ・もへい)の像です。
モーニングスタイルですが、供出前は羽織袴姿だったそうです。
~碑文より~
明治6年4月 開成社創立者
社 長 阿部茂兵衛
社長並 鴨原彌作
副社長 橋本清左衛門
(以下略)
昭和4年建立の銅像は大東亜戦争の為同18年6月供出し台座のみとなれるを昭和28年11月是れを再建す。
阿部茂兵衛翁顕彰會
会長 渡邊信任
外二萬二千名
昭和3年11月 内大臣伯爵牧野伸顕題
山田脩 [明治]
お気に入り度 ★★★ 2008年5月8日撮影
所在地:福島県二本松市「霞ヶ城公園」内
霞ヶ城公園の三の丸に建っていた山田脩(やまだ・おさむ)の像です。
安部井磐根、梅原親固と共に「郷里の三尊」といわれているそうです。
~説明版より~
山田脩翁銅像
公演中央広場には丹羽公居城跡地で、戊辰戦争後、明治6年日本最初の民間機械製糸の草分け「二本松製糸株式会社」が創立されたところである。彼は、明治10年に単身渡米し、ついにニューヨークに直売所を設け、「二本松生糸」の名票を付けて販売するに至った。また、製糸業を通して地方の発展にも貢献した。彼の功績を後世に伝えるため、ゆかりの地に銅像を建立したものである。
~碑文より~
(大日本蚕絲會會頭従二位勲二等伯爵松平賴壽題額)
山田脩翁は天保12年10月二本松藩士梅原直次郎二男に生れ同藩山田松友の嗣となり禄二百石を食む数々藩主の使命を完ふ志其奇才を稱せらる廃藩後時勢に鑑み殖産に志し明治6年民間製絲の嚆矢たる二本松製絲會社創立に参劃し單身渡米以て日本製絲の販路擴張に努む後帰朝するや其業を継承し雙松館製絲場と改組獨力経營に任す同9年畏くも明治大帝の東北巡幸に際し特に龍駕を駐め叡感を賜はる翁資性卓犖不覊情誼に厚く俊敏果断難事を決す名利恬淡正義を重んじ常に力を社會公共と地方開發に致し邦家に貢献せる其事蹟枚擧に遑あらす宜なるかな生前緑綬褒章を賜はり又各種團體より表彰を受く大正10年8月八十有一歳を以て逝く事天聴に達し特旨従六位を贈らる翁の如きは誠に國民の典型郷土の偉人として仰くへきなり
紀元二千六百年十一月
従三位勲三等子爵 丹羽長徳撰
東京高等師範學校講師 田代其次書
昭和十八年太平洋戦争に献納供出せし為蚕糸関係者並に地元二本松町有志相諮り昭和三十二年十一月三日再建せしものなり
最初に株式会社を創った人たち―二本松製糸会社在勤中我輩見聞丈之日誌
- 作者: 氏家 麻夫
- 出版社/メーカー: 日本労働協会
- 発売日: 1993/12
- メディア: 単行本
小林虎三郎 [明治]
お気に入り度 ★★★★★ 2007年5月12日撮影
所在地:新潟県長岡市・千秋が原ふるさとの森
「米百俵」で有名な小林虎三郎(こばやし・とらさぶろう)の像です。
といっても、米百俵の群像↓の一部ですが。
竹下内閣のふるさと創生一億円事業で建設されたそうです。
(以下碑文より)
この群像は、いまも長岡に伝わる「米百俵の精神」を、山本有三の戯曲「米百俵」の一幕から再現したものです。
北越戊辰戦争で焦土と化した長岡に、支藩の三根山藩(現在の西蒲原郡巻町峰岡)から見舞いの米が百俵送られてきました。食べるものにもこと欠く長岡藩士たちにとっては、のどから手がでるほど欲しい米でした。しかし、時の長岡藩大参事小林虎三郎は「食えないからこそ、教育をするのだ、学校をつくるのだ」と米を売り払い、その代金を国漢学校にそそぎこみました。
この故事は「目先のことにとらわれず、明日のために行動する」という精神風土を長岡に根づかせ、未来を担う新しい世代を育む思想の源泉となりました。
群像は「米を分けろ」と迫る人びとに虎三郎が切々と説いている場面です。かたわらの少年は「米百俵の精神」を引き継ぐ新しい世代を象徴しています。
長岡の誇る「米百俵の精神」が連綿として伝えられることを願って、この群像を建立しました。
平成3年10月吉日
長岡市長 日浦晴三郎
この群像は、長岡市が長岡市美術協会(会長 丸山一雄)に委託して制作、設置したものです。
制作委員長・全体構成 元井達夫
制作委員 鷲尾 正、川辺正作、内山良男、堀田 正、松本保忠
協力 松竹株式会社
平成3年10月
三島億二郎 [明治]
お気に入り度 ★★★★ 2007年5月12日撮影
所在地:新潟県長岡市「長岡赤十字病院」近く(信濃川左岸堤防上)
戊辰戦争後の長岡の復興・発展に尽力した三島億二郎(みしま・おくじろう)の像です。
なかなかの迫力でした。
億二郎が指しているのは長岡城があった方角だそうです。
午後は逆光になるので、撮影は午前中が望ましいですね。
億二郎は長岡の産業や文化、経済界の向上に貢献しましたが、
この像の後ろにある長岡赤十字病院(当時は長岡病院)も億二郎が開院したそうです。
銅像の除幕式は億二郎の173回目の誕生日(1998年10月18日)に執り行われ、台風10号の影響で強風が吹くものの、長岡藩牧野家17代目の牧野忠昌氏を先頭に億二郎の子孫やゆかりのある関係者、市民などが見守るなか披露されたそうです。
(以下碑文より)
三島億二郎は戊辰戦争で荒廃した長岡を復興させた恩人である
高い識見をもって産業を興し教育医療などに力を注いだ
誠実な人柄を慕う人びとと力を合せ長岡の発展の礎を築いた
その偉業を讃えその卓見を未来に引継ぐためここに銅像を建立する
1998年10月吉日
三島億二郎像建立会
銅像制作者 元井達夫
長岡市長 日浦晴三郎書